超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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僕は意思の力とかその辺りが好きですね。

僕は意思の力とかその辺りが好きですね。


台風が接近してる沖縄本島であるが、今日の天気はものすごく綺麗に晴れ渡っていてものすごく暑い。いちおー、接近するのは明日から明後日ごろなので、これから強風や大雨が発生する感じなのであろう。


この調子であれば明日は普通に仕事かね。今日はひとまず友人と一緒に那覇市糸満市のカフェを巡ってきた。僕はこんな感じで度々、沖縄県内のカフェや喫茶店を巡るドライブをやっている。


そのカフェ巡りの趣味について色々と書くのも悪くないかなと思うのであるが、どうもこのブログを書いてる段階でなんとなく自意識が拗れた感じの文章を書きたいなという欲求があり、最近そういうメンタルの巡りをしているのであろう。


とはいえ、自意識が拗れた感じの文章を書くとしてもどんなことを書けば良いのか。そういう面倒な心情の文章を書いたところでアクセス数は激低であり、その手の記事というのはたまにめちゃくちゃ書きたくなるけど掛ける心理的リソースの割に得られる利益がほとんどないという不良債権のような文章である。


今日はまぁ自己顕示欲についてでも書いてみるとするか。僕は意図的にアクセスが欲しいだとかいいねされないみたいな愚痴は書かないようにしているけど、そういう数値が低いときは機嫌が悪くなるし生活をしていてもつまらないと感じてしまうのである。


まー、なんというか、僕はこのブログでもそういう自己顕示欲的なものを否定するようなことを書いてたりするけども、ブログを書いたりだとか小説を書いたりみたいな自己表現するものというのは誰かに認められたいから作品を作るのだろう。


そういう自己顕示欲がまったくないのであれば、そもそも作品を作るモチベーションというのも湧かない。誰かに認められたいと思う気持ちがあるからこそ作品の作り方なども工夫してクオリティを高めようとするし、自分の作品を誰かに伝えようとする原動力になる。欲望が枯れ切った人間というのは何もできない人であるのだ。


とはいえ、自己顕示欲が強すぎて周りから見てもドロドロとした欲望が垂れ流しという人間は、僕は共感性羞恥心を感じてしまって苦手である。クリエイターの心情としてそのような感情があるのは認めているけど、それを建前もなしに素の感情をそのまま見るというのは恥ずかしい。


クリエイターという存在がどんなものであるのかというのを僕が定義するとするならば、「すべての欲望を表現へとコンバートして読者の感情を揺らす人」である。何かしらの表現をするのであれば、その欲望をみる人が辟易しないようなオブラートに包んで、そして最終的にはその作品から作者の意図を読み取らせるようにするべきであると思ってる。


僕はどうも物事に対する建前的なことに随分とこだわるタイプの人間であるらしく、ドロドロとした欲望をそのまま表現した作品というのは、文学であろうが映像作品であろうが苦手である。偽善だと否定する人もいるかもしれないが、人間というのは欲望に塗れていて救いようのない生き物であるからこそ理想を持たないとならない。何もかもを否定した感情のあり方というのはどこにも辿り着かない。必ずしも建設的である必要はないと思うけど、読んだ人に何かしらの指針を与えてやるのは優しさだと思うのだ。


僕は剥き出しのエゴというのが嫌いだ。それが意味を持ってようが美しかろうが、きちんと準備や後始末もせずに読者に全部解釈を放り出すというのは存在を認めてやりたいとは思わない。TV版エヴァンゲリオンのラストの展開みたいなやつは、表現としてはおもしろいなと思うけどどうにもその精神性のあり方は自分とは相容れないものだなという感じた。だからこそ新劇場版のエヴァで最後までちゃんとその辺りの未完成だった自意識を掘り下げて作品を完結させた庵野秀明氏はすごいと思うし、リスペクトしてる。


あ、なんとなく見えてきた。僕はそういう自分のエゴにちゃんと形も与えずに他人に解釈を任せようというあり方が嫌いなんだわ。なんとなくそういうので心理テスト的なものもあんまり好きじゃない。自分自身のことであるのに、説明を全部無意識であるとか他人に任せてしまうその心根というのは未熟であると思う。自分はこうありたいみたいな意思の方向性が見えず、心理テストや他人がこう評価してるとか運命で言い訳するその意思薄弱さというのは受け入れ難い。


自分はこうしていきたいという意思の力であるとか、世の中をこう変えていきたいという理想というのは美しいものであると思う。どうもニーチェの「権力への意志」のような考え方であるけど、僕は昔っから実存哲学が好きであったし、表現するものにおいてもそういう理性の力というのを書こうとしてしまうのであろう。


人間というのは欲望に塗れて弱くて小さな存在であるからこそ、意思の力でもって環境や現状に立ち向かおうと努力してる姿は美しい。僕が表現したいものというのはそういう人間の意思の力である。僕自身がそうありたいと願うからこそそれを表現してしまうのだろう。

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