超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか」を読んでいる。

「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか」を読んでいる。


体調が・・・(以下同文)。まー、こればっかはしゃーない。メンタル系の病気を患ってるものの宿痾である。何かアクシデントで動揺するようなことがあると数日から数週間に渡ってメンタル不調に陥ることがよくある。僕も自分のブログを読み返すことがあるが、体調が良い日より悪い日の方が多いぐらいである。この辺りは、OpenAIのAPIでも使って自分のブログを読み込む処理を作り、最近のネガティブ・ポジティブ度を折れ線グラフにする機能でも作成したら役立つかなと思うぐらいだ。


しかし、辛い辛いと喚いてるばかりじゃ心にしわが増えるのである。ちょっとは適当に気晴らしになるようなテーマでブログを書いてみて、気分転換を図る必要があるだろう。今週末も土曜日にカウンセリングと耳鼻科があるが、日曜日は予定がないので、適当に自宅でNetflixで映画を観るなりして気晴らしをする予定である。


ちょっと相互読者のロア( id:ru3nu )さんのところで、リリー・フランキーみうらじゅんの共著である「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか」と言う本が紹介されてたのでそれを読んでいる。


books-limelight.com



ミッドライフクライシスで人生に迷えるおっさんの僕には、どうやらこちらの本がどんぴしゃり。「なるほどなー、そうだよなー」と言いながらアンダーラインを引きつつ読んでるが、付箋が増えそうである。


その中で述べられていることであるが、生きるうえでプライドというのはさっさと売っぱらった方がいいものであるというのは同意である。特に自己満足のためだけの人に見せるもの用のプライドなんて無用の長物であり、早急に捨てるのが軽やかに生きるコツである。


こういうのは仏教では「慢」というのだが、他人と自分を比較して自分の方が優れていると優越感に浸ったりとか、逆に過剰に自己卑下して自分なんて大したことないと落ち込んだりする心理である。


人生を生きる上では他人と自分を比較することは避けられないことであるが、 そこで自分を強く見せようとしたりとか逆に卑下するということは、疲れるばかりで何も良いことはない。それは自分に嘘をついてるからである。


自己欺瞞の嘘というのは、拗らせると大きな失敗の種になる問題である。人と自分を比較してそれで何かしらの恨みであるとかコンプレックスを作り出してしまう。そういう無用なこだわりというのが、普通の人間関係に妙な緊張を生み出し、争いやストレスの種になるのである。


「〇〇であらねばならない」というこだわりは、それを自分の自己規範として使うならともかく、それを他人に強制するタイプの人間も割といる。いずれにせよ、普通に生きる分において、法に触れることでもなければ、やらないといけないこととかやってはいけないことはそんなにないもんである。


どうも、僕も随分とプライドが高い方の人間であるが、他人との人間関係において自分のこだわり故に衝突することもよくある。僕は、綺麗事ばっかり言っており、手が動かないタイプの人間というのが嫌いである。


仕事をやる上で、理論とか理屈とかはある程度、座学で必要であるものの、実際に作業を終わらせて業績を出すためには手を動かすしかないのである。ペラペラと口先だけの理想論で分かったようなことをいい、それで本人の実践が伴わないタイプというのを僕はバカにする。


生き方などの哲学においてもそうであるが、難解な言葉で読んでる人をケムに巻き、実践不可能な理屈だけの考え方というのも無駄である。僕の生き方において採用してる哲学は「プラグマティズム」であり、その考え方が実際に生活において具体的に実践可能で、しかもその中で有用なものだけを尊ぶという考え方をしている。


しかしまぁ、こういう頑固な職人気質というのも、人の和を保つという面ではなかなかに厄介なものである。世渡りをしていこうと思うのならば、こだわりだけでは通用しない局面というのも多々あり、ビジネスにおいては我の強さがマイナスに働くこともよくある。ある程度の柔軟性というのも生きるためには必要ではないだろうか?


まずはプライドやこだわりを抜きにして、相手そのものをしっかりと見る姿勢というのは必要なものの気がする。自分の色眼鏡をつけて最初から相手をバッサリと切り捨ててるようでは、その人の本質も見落としてしまうだろう。また、そういう自分のプライドが自分の本質を歪めてしまうこともありうることだ。素直な考え方というのは必要であるね。

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