自己成長と習慣:言葉への意識と綺麗な日本語
今日は午前中に買い物に出掛けてきて、午後から自宅で次の旅行の計画をしたりとか、カラーひよこさんところのブログへの寄稿記事を書いたりしてた。
夜になって、そういえば自分のブログを書いてないなと思い出して書き始める。さっきまで本を読んでたけど、図書館で借りた本というのは期限付きで読まないといけないから大変ね。まぁ、本については積読にしとくといつまでも読まないし、こんな感じで制限時間付きの方がたくさん読むことができるかもしれない。
しかし、改めて思うのであるが、文章をいくら書いても書き慣れることはあっても文章が上手くなる訳ではないなと強く思う。今回、カラーひよこさんの「写真と文」に寄稿をするために他の人がどんなことを書いてるのだろうといろんな人の文章を読んでみたのだけど、みんな書いてる文章が上手いの何の。
「別に僕だって本気出せばすごいもんねー」的な負け惜しみを言いたいところであるが、基本的に僕が書けるような文章というのは普段からこのブログで書いてる雑文である。ちょっと文章の方向性をいじるぐらいはできるけども、そこまで大きくスタイルを変えるような器用さというのはないし、なんとなく全体的にざつーな感じの文章ばかりを書いてしまうのである。
や、いくら僕でも仕事でちゃんと要点を整理した文章を書かねばならぬ時とか、小説で文章を書くときには書き始める前にアウトライナーで下書きを作ったりとかして、きちんと読んだ人に要点のみが伝わる文章を書くことぐらいはできるけど、趣味で書く文章に関してはそこまで手間暇をかけたことをせずに、思いつきをキーボードに叩きつける書き方をしてしまうのである。
僕は芸事の成長についても考えたりするのだけど、ある程度成長をしたいと思うのであれば、現時点の自分の技量に対して不満を持っていたりとか問題点に気が付いてたりしないとならないと思う。僕が文章を書くという趣味については、書いて気持ちよくなって終わりであり、これではいつまでも成長しないのは当たり前である。
しかし、文章を書くことを成長させたいのか? と自分の内心に問うてみても、「楽して上達するなら嬉しいけど、苦しいのは嫌」という世間を舐めきった答えしか返ってこないのである。上達する人たちというのはその行為対して大きな問題意識を持っているはずであり、それを乗り越えようと工夫するときには少しなりとも痛みを伴うものではないかと思う。
実際のところ、これだけダラダラと継続期間だけは長くブログを書いてきたけども、それでそこまで評価されてこなかったのは自分が人に評価されるような文章を書くのを怠ってきたからではないか? という疑惑もある。なんかね、僕はブログの毎日更新を始めた頃から「読みたきゃ読め、読みたくなければ帰れ」という意識高い系のラーメン屋のような態度を続けており、こんなわがままを言い続けてるからいつまで経ってもパッとしないのである。
別に多くの人に注目される必要というのはさして感じないけども、文章は上手くなって読んだ人に「これは……」という感じで唸らせるような知る人ぞ知るブログ的な存在にはなってみたいよね。今回、カラーひよこさんのところのWeb同人誌ブログには30人ほどのブロガーが集まってるけど、みんな文章がうめーの。僕みたいに40になってもこわっぱみたいな人を舐めた文章の書き方しかしかできない人と比べると、みんな真面目に読ませる文章を書いてる。
まー、でも、文章を書き続けるということは、文章を上手くなるかは別として文章を書くことは楽になるよねと思う。ブログの毎日更新を7年ばかし続けてきて分かったけど、書けば書くほど意識をアウトプットすることに対する障壁というのは低くなり、書くこと自体が楽になる。
僕もたまに文章読本などを読んでみて、日本語のグラマーについて勉強したりもするけど、そういう書き方の理論面を上手く実践に活かすことができる書き方というのはやってみたいよね。夏目漱石の「文鳥」であるとか「永日小品」のようなエッセイ作品を読んでみても思うのだけど、日本語というのは本当に芳醇な語句が溢れており上手い人の読ませる文章は言葉がキラキラしてる。
とりあえず僕がちゃんと改めないとならないことは、無自覚で適当に言葉を振り回すような書き方をもうちょっと丁寧な感じに改めることであるよねと思う。わかんない語句があるのならちゃんと国語辞典で調べたりとか、表現を工夫したいと思うなら類語辞典を使うなど、言葉の一つ一つの意味をちゃんと組み合わせる書き方を体に染み込ませるべきであると思う。せっかく毎日ちゃんと文章を書く習慣と場所があるのだから、綺麗な日本語を使えるようになりたい。こうやって他の人のブログに寄稿するようなラッキーもあるのだから、ちゃんと意識を持って文章を綺麗に書く練習はしないとね。