超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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自分なりにゆっくりとした速度で考えながらやっていけたらなと思う。

自分なりにゆっくりとした速度で考えながらやっていけたらなと思う。


今日は病院受診でお休み。主治医の先生との関係は、まぁ良好であり、テキトーに最近の出来事なんかを話して終わり。


それから飯を食って、映画の時間までスタバで時間を潰してるのだけど、何にもせずぼんやりとして座ってるのも時間が勿体無いのでブログを書いてしまう。


最近はスマホがあればどこでもブログを書けるから便利よね。僕のブログは毎日2000字以上とノルマを設けているので、小さな画面でポチポチとフリック入力で書くのは、PCに比べると確かに面倒ではあるが、やれなくはない。


まぁ、基本的に僕の趣味というのは文章を書く事なので、会社でもサボりがてらに頭の中の思いつきをエディターに叩きつけてる事もある。どうも、世間一般の人には理解されにくい様なのだが、頭の中の思いつきをただただダラダラと書き連ねるというのは、フツーに楽しいのであり慣れると娯楽になる。


僕はこんな感じで時間がある時に、スマホのエディターを立ち上げて思いつきを書き連ねてる時がある。この時に書いた文章というのは、誰にも読まれる事もなくメモリの中に死蔵されてしまう様なものなのだけど、たまに自分で読み返してみて「こんな事考えてやがる」と振り返ったりするのである。


こういうのは一般的な意味ではジャーナリングなのかもしれないけど、僕はブログを書く人間であり、こういう単なる趣味で文章を書く事と自己表現というのは、シームレスに繋がっているのである。


思考の言語化で文章を書く事の良さというのは、単なる意味不明な感情や思考の流れというのを、ひとまず具体的に目に見えるものにして、理性で取り扱い可能にする事である。


感情というのは頭の中で転がしておくと、いろんな事柄を坂道を転がる雪玉のように吸収して、際限なく大きくなっていく。文章を書くという事は、その流れを一時停止させてスナップショットを取るようなものである。


一旦、言語化された感情というものは、それは客観的に分析が可能であり、心理学とか哲学の理論でさまざまに解釈をする事ができる。逆にいうと、頭の中で際限なく妄想が広がってる状態では、どれだけ頭脳明晰な人でも真に自分を客観視するのは難しく、自分のことだけど全く何も分からないという事になりがちである。


これは必ずしも難しく考えなくても良い事であり、何か悩んでるなとか思った時に、スマホなりを取り出してメモ帳に今、考えてる事を文章にしたら良いのである。自分の思考については何にもせずに頭だけで考えて理解するというのは、自分の考えでも不可能であり、目に見えて手に取れる形にしないと操作が出来ない。


そこんところを直感的にできる人たちというのも居るんでしょうけどね。僕はどうにも直感的というよりは理論的の方であり、自分が理解できない事に関しては関わる事をやめてしまいがちである。それが、自分にとってコントロール可能かどうかで取り扱いを変えるところがあり、無理な事に関しては最初から諦める。


僕は物事に対しては拙速にやってし損じるというのが嫌いであり、丁寧に周囲の外堀を埋めていき徐々に詰将棋というのが好きである。ちゃんとコツコツと積み上げると、同じような成果が出る事というのが得意であり、そういうのは性格的なものなんだと思う。


困り事とか悩んでる事をわざわざ文章に言語化して考える事というのは、悩み事の解決方法としては「遅い」。一つ一つ、自分がその事について考えている理由を熟考して、意味を積み上げながらゴールを目指すようなものであり、下手をしたらそんな事をしてる間に問題は通過して終わってしまうかもしれない。


僕は、人がどう思おうが、人と自分を比べて損してるという事になっても、まずは自分自身の理解を優先したいと思っている。自分の目の前に現れた事柄の理由であるとか、その事に対して自分がなぜそのような事を考えたのか。その理由を一つ一つ理解しながら進みたいのである。


こういうのは世間の潮流の中では、周りに一切同調せずに好き勝手な事ばかりやってるマイペース野郎として捉えられて、浮いてしまうかもしれない。しかし、現代の世の中の流れというのは、本当の意味とかはどうでも良くて、多数派のポジショントークが真実であると信じ込まされる世界だ。そういう世間の潮流というのは、僕はせわしすぎて合わせられる気がしないし、そういうのは本当の人生を生きてないと思う。


自分が本当は何が好きで、何をやって生きていきたいのかは、考え始めるとキリがない。実際、そういう自分の存在意義というのは答えがない問いなのかもしれない。だが、自分でこうやって考えた事を文章にして、一つ一つの事柄に心を通わせていくと、少なくとも納得感があるのである。


自分が世の中のことを考えた時に見つけた納得感を元にして生きていくというのも悪くないかもしれない。少なくとも、この世界のスピードは個人の思考の理解なんて置いてきぼりにして、大衆の欲望を満たすためにドライブしている。そこでは心の動きなんてものは圧殺されるものであり、ひとりが考えてることなんて何もないのと一緒である。


これは老子の言うところの「上善如水」という生き方に通づるのかもしれない。目立たないようにひっそりと、でも分かる人には助けになるように言葉を残す。僕は少なくとも一人でちゃんと考えたい人のために言葉を残すつもりである。

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